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羞恥心


そう、無論僕もだ。


しかし、恥というものを捨てなければ得られないものもあるだろう。

    恥を捨てないで得られるものもあるだろう。


そこで僕はいつも疑問に思う。


なぜ恥ずかしくなるのだろう、と。


もちろん、これは誰かが恥ずかしがっている様子をみて、なぜあの人は恥ずかしがるのだろうという、”なぜ”ではなく、人の心の動きとして”恥ずかしい”という気持ちが起きるのはどういう機序なんだろう、という”なぜ”である。


Wikipediaの「羞恥心」ページによると、


以下Wikipedia(読むのが面倒な人は線まで飛ばしてください)

 

恥じらい、あるいは羞恥心というのは、恥ずかしいと感じる気持ちのことである。つまり恥を感じている気持ちのことである。


菅原健介は羞恥心が生じる重要な要因として、他者から期待される役割イメージからの逸脱をあげている。人間には所属欲求があり、所属した社会から排斥されないために、公的な自己像からの逸脱をコントロールしようとする。羞恥心は、他者からの期待や信頼に背くなど、社会からの排斥を想像させる苦境場面に自己が置かれていると認識することによって喚起される、生得的な警告反応である。この期待と現実のギャップによっておきる反応は、他者からの期待が現実を大きく超えた賞賛などでも生じる。


罪悪感ないし羞恥心を測定する TOSCA-A の項目 "shame" によると、羞恥心は以下のとおり4つの下位尺度に分類される。

  • 自己の存在が取るに足らない物と感じ、自己を否定したいと思う「全体的自己非難」

  • 恥を感じる状況から逃げたい、もしくは恥を感じた記憶を消したいと思う「回避・隠蔽反応」

  • 自分が周囲から孤立したと感じる「孤立感」

  • 人に見られている、人に笑われていると思う「被笑感」

自己意識的で否定的色彩があることなど共通する要素が多く、社会的行動に影響を与える感情として、羞恥心はしばしば罪悪感と比較される。罪悪感が自己の起こした特定の行動の相対的評価を問題視するのに対し、羞恥心は自己全体への否定的評価を問題視する。 TOSCAを作成したJ.P.タングニーの研究では、羞恥心を感じやすい人は罪悪感を持ちやすい人より攻撃的で、責任を転嫁しやすい傾向があるという。 羞恥心は、外部への帰属、他者への強い焦点、復讐といった感情や行動を発生させる屈辱感を伴い易いからである。

自分が社会的なルール常識を知らないで、ルールに違反してしまったり、自分が望むだけの成果を上げられなかったりした場合に、自分が身の置き所がなくなり、自身の内にこみ上げてくる感情情動のことと解される。

これは様々な面で、道徳人道といった概念が引き合いに出され、自身の行動を適正化させていく。

例えば、幼い子供であれば、トイレに行くのが間に合わず、お漏らしをしてしまったり、また思春期前後の世代では空腹時の腹鳴が周囲の人に聞こえてしまったり、スポーツの技量などで友達に力が及ばなかったり、集団の中での自己にいきなり焦点が当てられたりと言ったような場面で、この感情が出てくる。この感情は、集団の中の自己を意識するようになって初めて生まれてくるものである。

成人になると、性的な場面や社会的な業績、成果といったものにとりわけ関係するようになる。


 

とある。

いろいろ書いてあるが、結局は


「現実と周囲からの期待のギャップによって生じる感情」


とまとめることができるのではないか。

これは、自己と周囲があって初めて成り立つのである。


そして、”周囲からの期待”とは、自分自身が他人から”こう思われていたい”という期待とも被る。なので、自分の内面にしろ、外見にしろ、現実とのギャップが生じたときに”恥ずかしい”と感じるのではないか。

他人とは、不特定多数の場合もあるし、特定の人の場合もある。



つまりだ。


”もしもこの世に自分しかいなければ、恥ずかしさを感じることはない”


ということになるが、そんなことは不可能なので、現実世界でなるべく恥ずかしい気持ちを抱かずに済む方法を考えた。


1.「そもそも人は人に興味がない」と思う

 これは、”期待”というそもそもを捨てる最強の手段である。

 期待がなければ、現実とのギャップが生じる余地がないので、恥ずかしさを感じないという理論である。


2.自分の理想像(=期待)を限りなく下げる

 そもそも恥ずかしさを感じる人は、自分の像を正確に把握できていない(これはすべての人に言えるだろうが)。しかも人間は誰しも自分の内面なり外見なりを実際よりも上に考えがちなのである。よく、自己評価が低い、という人がいるが、これはその人が自分で自分はもっとできるはずだ、と考えているから自己評価が低くなるわけで、根本として自分の評価が高いということから生まれる皮肉である。

 なので、自分は自分の考えているより相当低い実力なのだ、と思うと恥ずかしさも感じなくなる。というか、むしろ少し何かができただけで嬉しくなっちゃうはずである。 


3.フルチンで歩いてみる

 周囲からどう思われいるか、それを完全に取っ払った究極形態が、フルチンである。

よく、酔っぱらいが服を脱ぎ始めるが、あれは恥ずかしいという気持ちが無くなった状態というよりかは、むしろ”現実>周囲からの期待”という、ギャップが正に振り切っている状態なのである。つまり、服を脱ぎ捨てすべてをさらけ出し、”自分(現実)を見よ!ほ~らすごいだろ!お前らの期待よりもすごいだろ!”という、いわば、”ナルシスト”状態なのだ。むろん、そんなものはアルコールが作用した脳の錯覚であり、全くお酒ってのは怖いね。

ちなみに、Wikipediaの羞恥心のページに以下の文章がある


 

ナルシシズム

成人のナルシシズムは、恥への防衛機制と関連しているとの論があり、また自己愛性パーソナリティ障害についても同様である。精神科医Glen Gabbardによると自己愛性パーソナリティ障害は、壮大、傲慢、皮の厚い「忘却型」タイプと、過敏で恥ずかしがりやの「過敏性」タイプという、2つの亜型に分類できるという。 忘却型タイプは、賞賛、羨望、感謝のために、隠された弱い内面化された恥ずべき自己とは正反対の、壮大な自己を周囲に提示する。一方で過敏型タイプは、他人を不当な虐待者と見なすことで切り下げを中和する。


 

つまり、羞恥心とナルシストは関係しているのである。


4.むしろ現実で実力を爆上げする

 これは最強、なんたって現実での実力が上がるわけだから最強。これが一番てっとり早いし、なんなら一番の根本的な解決策でもあるように思われる。

しかし、現実での実力を上げるとなるといろいろな困難や障壁が立ちはだかり、さらに時間もそんじょそこらの時間をかけただけでは上がらない。しかも、自分を信じて努力を続けても才能がなければ伸びない分野もあるし、全く現実ってのはどうしてこんなにも複雑なんだと思わざるを得ない。さ~て、自己啓発本や効率的に生きる生き方を学んでコスパよく生きるぞ~なんつったって、どんな状況にも少しの努力や時間は必要だ。楽をする生き方を探すということに関して努力をしていて、なんにも成果を得られないときほど虚しいものはない。あれ、普通に頑張ったほうが良かった、近道だったんじゃない、ということはよくある。なので、少しの努力や手間なら省く方法がすぐに見つからない限りちょっと頑張ってしまったほうが早いのである。なりふり構わず努力をする。努力中毒になるくらい頑張っていれば、もはや他人からの目線など気にはなくなるのかもしれない。

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